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「美濃国諸旧紀」

 遠江守光綱、家督を受継ぎ、明智に住し、代々の知行一萬五千貫を領す。大永元年の春、山岸加賀守貞永の娘を迎へて室とせり。光綱、日頃多病なり。天文7年戊戌年八月五日卒す。嫡子光秀、其時僅に11歳なり。右幼少なる故に、祖父光継入道の命として、叔父光安・光久・光慶3人、之を後見として光秀を守立て、城主とせり。然るに光秀は、生立凡人に變り、幼少より大志の旨ありける故にや、明智の城主として、僅一萬五千貫の所領を受継がん事を、望と思はず、家督を嫌ひ、居城を叔父に任せ置いて、其身は遊楽となり、武術鍛錬の為に、諸方を遍歴しける。

 移住す。軍術武略古今に独歩して、その頃、天下に名を得し良将なり。しばしば敵国を打ち平らげ、次第に昇進し、近江、丹波、そのほか所々に於いて領地を拝すること、十五ヶ年間にしても、十三万六千貫(これ六十八万石たり)天正十(一五八二)年六月二日、にわかに返逆して、京都において、織田信長、信忠父子を打ち取り、畿内、江州を征す。同七日、参内を経て、惟任将軍に宣下す。末世視補のため、京都地子を免許す。同十三日、城州久我、山崎に於いて、古今大合戦に利を失う。その夜、密に、坂本城に赴くを欲し、その路すがら、伏見小栗栖の里に於いて手負い、地蔵山に入り、遂に、生害す。年五十五歳。(従天正十年至明治十四年 三百年を経るなり)

法名、長存寺殿前丹江両州太守兼日州刺史明窓玄智大禅定門。

△右尊霊三百回忌□當、明治十四年六月十三日也。更設真影

 千時、其調ニ付、経数月、依テ、十一月廿九日、当開山御忌、同日、祭祀之。省□□誌。」(田中豊氏の解説)

さらに詳しく「山岸系図」に記されています。

「明智氏血脈山岸家相伝系図書」

「享禄元(一五二八)年八月十七日、可児郡明智城に於いて生。母は、山岸加賀左右門尉信連の女なり。伝曰く、光秀、本来、これ、光綱の実子にあらず、甥なり。実は、光綱の妹婿、山岸勘解由左右門尉信周の子なり。はたまた、実母は、光綱の妹市女なり。父光綱、大永元(一五二一)年二月、山岸信周の妹をめとり、もって、妻室とす。享禄元年まで、八ヶ年の星霜を経て、いぜん、光綱、生得多病にして、ついに一子をもうけず。しかるに、光綱の妹、市の方は、大永元年八月、山岸信周に嫁ぎ、既に懐妊の身なり、折節、享禄元年八月、古郷明智の家に於いて、佳例有式なる、祝いの事として、親族を招請し、もって、おのおの慶賀す。よって、この時、市女は、父母の招きに応じ、すなわち、明智に赴き、一両日ここに逗留す、にわかに、産気発して、同十七日、ついに、一子を生む。これすなわち、光秀なり。光綱、形のごとく、末子ゆえに、これを幸いにして、光継、光綱父子、即断、信周にこれを請いうけ、そのままただちに、光綱の実子と称して、もって、明智の嫡伝にあいたておわん。けだしこれ、光綱妻室、美佐保の方、古今貞節孝心の婦人にして、常に、光綱の病身を悲しみ、又、子なきことを嘆き、よって、密に、千手観世音を祈り、一子誕生の事を願う。しかれども、夫、極めて多病ゆえに不能。そのこと、しかるところ、市に方、折節、妊娠の身にして、かえりて、明智の家に来りて、不思議に今、この男子を生ず。これすなわち、美佐保の方の祈誓、千手観音の利生によるところなり。その霊験奇瑞のこと、ほぼ多し。その伝は、ここに略す。天文十二(一五四三)年三月十日、元服して、明智十兵衛光秀と名乗す。同二十年十二月五日、一族土岐郡妻木の城主、妻木勘解由左右門尉範熈の女を娶り、室とす。その名、於牧の方という。弘治二(一五五六)年九月廿六日、国主斎藤左京大夫義龍のために、叔父兵庫入道宋寂〔光安〕、同次左右門光久兄弟、戦死して、明智城没落の時、宗寂の頼みによりて、存命し、両従弟光俊、光忠等を引き連れ、密に明智を立退き、浪人となりて、実父山岸信周のもとに移り、しばらく蟄居す。但し、光秀、幼少の頃より、天下を平定の大志あり。よって、まず、武術鍛錬のため、妻子を信周のもとに預け置きて、その身は、弘治三年正月、初めて美濃国を立出で、六ヵ年の間、あまねく天下を遍歴して、もって、国々諸家の弓矢を相うかがい、永禄五(一五六二)年二月廿日、武者修行おわりて、いったん帰国し、しかしてまた、越前国に移り、仮にまず、朝倉左右門督義景に仕官して、妻子、従類を扶助す。しかしてのち、越前において、足利新公方義昭公に属し、同十一年八月、濃州に移り、公方家の推挙をもって、従弟女の聟、織田上総介信長に属し、初めて、四千二百貫の領地を拝す。(二万千石なり)元亀二(一五七一)年九月、近江国志賀郡坂本の城主となる。三万六千貫を領す。(これ十八万石なり)同四年七月、公方義昭没落の後は、自然と織田の腹臣となり、西近江一円六万八千貫を領す。(これ三十四万石なり)天正三(一五七五)年正月、丹波国を賜り、同三月、氏を惟任と改める。同五月、丹州桑田郡亀山城に移住す。軍術武略古今に独歩して、その頃、天下に名を得し良将なり。しばしば敵国を打ち平らげ、次第に昇進し、近江、丹波、そのほか所々に於いて領地を拝すること、十五ヶ年間にしても、十三万六千貫(これ六十八万石たり)天正十(一五八二)年六月二日、にわかに返逆して、京都において、織田信長、信忠父子を打ち取り、畿内、江州を征す。同七日、参内を経て、惟任将軍に宣下す。末世視補のため、京都地子を免許す。同十三日、城州久我、山崎に於いて、古今大合戦に利を失う。その夜、密に、坂本城に赴くを欲し、その路すがら、伏見小栗栖の里に於いて手負い、地蔵山に入り、遂に、生害す。年五十五歳。(従天正十年至明治十四年 三百年を経るなり)

法名、長存寺殿前丹江両州太守兼日州刺史明窓玄智大禅定門。

△右尊霊三百回忌□當、明治十四年六月十三日也。更設真影

 千時、其調ニ付、経数月、依テ、十一月廿九日、当開山御忌、同日、祭祀之。省□□誌。」(田中豊氏の解説)

上記を図示しますと以下のようになります。.

山岸.png

 

明智光秀の出自と家族

 

「宮城系図」および「美濃國諸旧紀」において、光秀の出自と家族構成については、以下のように記載されています。

「明智氏一族宮城家相伝系図書」


  「(光秀は)享禄元年戊子(一五二八)八月十七日、石津郡多羅に於て生、云云。多羅は進士家の居城なり。或は明智城に於て生共、云云。母は進士長江加賀右衛門尉信連の女なり。名を美佐保と云う。伝に曰く、光秀、実は妹婿進士山岸勘解由左右衛門尉信周の次男成。信周は長江信連の子なり。光秀、実母は光綱の妹。進士家は濃州に於いて、長江家と号。郡上郡長江の庄を領によるなり。北山の豪家と称す、云々。明智光綱家督相承して、妻縁を取り結び、のち、既に八年の春秋を経る。然れども、生得病身にして、一子をもうけず、齢(よわい)四十に及ぶ。よって、その父光継の賢慮として、光秀、誕生の時、そのまま、これを取り迎え、養子とし、家督を相譲。よって、光秀、光綱の子となる。しかして、叔父兵庫頭光安入道宗寂をもって、後見とし、その本城に住す。弘治二年丙辰(一五五六)九月、明智落城後、しばらく、浪人。足利義昭公に仕える。後、織田信長に仕える。天正十壬午(一五八二)六月十三日夜、城州伏見小栗栖に於いて、生害。年五十五歳。」(田中豊氏の解説)

親子関係は以下のように図示できます。

 

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宮城.png
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